第2回
相手があっての支援だと思うけど…(1/2)

コラム第2回目。これで連載達成!かな?
この1ヶ月間。書いては消し、消しては書きを繰り返し出来上がったコラムです。
ツイッターやブログは自分の好き勝手に書けるけど、仰々しくも「連載コラム」となればかなりのプレッシャー。
その理由を考えると、
「このコラムをどんな人が読んでいるのな?」
「コラムを読んでどんな感想を持つのかな?」
「言葉遣いの誤解はないかな?」という疑問がふつふつと湧いてきて、
「好き勝手には書けないなぁ〜」
「でも連載を宣言したからには…」を繰り返しています。

と、連載2回目にしての泣き。
でも、よくよく考えてみれば「支援」というのもまさにこれの繰り返し。

「相手はどんな人だろう?」
「私が担う支援って本当にこれで良いの?」
「理解しあっているつもりでも、本当は私に合わせてくれているのかな?」という疑問が湧きあがり、
「うまくいっているようだけど、本当はどうなんだろう?」
「でも、とにかく関わらないと目の前の人の暮らしは成り立たないし…」
を繰り返しているわけです。

たぶん、専門家や研究者の皆さんは、様々な事象や当事者の姿を見て、その人の「障がい」というものが何か?「そもそも障がいって何?」等といろんな事を明らかにしていく事をもっぱらのお仕事としているのだろうと思います。それはそれで、日々悶々と担っている私にとってはありがたい面もあります。

でも、明らかなことばかりで支援が成り立つと言えば決してそうではない訳です。どちらかと言えば、相手の事が解らないから支援しているとも思ったりします。
「障がい」と言っても一人一人違うし、置かれている環境や日々付き合う人たちとの関係性が違えば本人が想い描く事も違ってあたりまえ。
「違ってあたりまえ」とたぶん皆さんおっしゃるでしょう。

では、「何がどう違うの?」「各々の違いを違いとした時、さてどうする?」という事をあれこれ考えだすと限がない。
限がなくても担い続けなければ、その人の暮らしは成り立たない。
想いの違う当事者と当事者が目の前に現れたら、私はどうすれば良いの?
「こちらを取れば、あちらが立たず。あちらを取ればこちらが立たず。」という事が日常茶飯。
想いを異にする当事者の調整に走ると、どこか「支援の側の意図に当事者たちをまとめているのでは?」とも思うし…

さらには、本人が言葉で説明できない人であったり、言葉の使い方が私と違っていたり、そもそも感情等々も含め価値観・世界観・抱いている概念さえも私と違う当事者たちの支援を考えると、表面的にはうまくいっているようでも、よくよく考えていけばまったく出口不明の暗闇を手探りで歩く状態にもなったりします。

プロフィール

岩ちゃん
(「岩ちゃん」さんとは言わないでね)

年齢:1963年 大阪産
現在:東京都在住
仕事:たこの木クラブ代表

たこの木クラブって何?
東京の端っこの方で活動しているちっちゃな市民団体です。1987年に誕生しました。

「地域でともに生きる」事をめざし、発足当初は「子ども達どうしの関係づくり」をテーマに、出会いの場としての子ども会や子ども達の日常である学校にこだわり活動してきました。
2000年あたりからは、障がい故に取り残されていく子ども達(青年たち)の課題として、進学・就労・自立生活といった様々な場面での支援を担っています。

「支援者」と言えば聞こえは良いのですが、「知的」とか「発達」といった障害名や専門性に疎く、長年付き合ってきた子ども達のほとんどが実は「自閉症」という領域にいる人たちである事を最近になって知ったほどです。
又、重度と呼ばれる人たちが多いため「自閉症」という人は皆、療育手帳が取れるものと思っていたまったくのど素人です。
でも、専門的な事はまったくわかりませんが、目の前にいる人たちと向き合い、今そして将来に渡り「誰もが地域で暮らし続ける」ために必要となる課題を日々悶々と模索しつつける事には変な自信を持っている私です。
共著『良い支援?』(生活書院)絶賛販売中!お求めはたこの木ブログより!

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歩くたこの木

著書・共著


良い支援?
知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援
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