第3回
東京に出てからの私(大学時代〜) (1/3)
東京の大学へ出てくれば、音楽の勉強ができなくとも、音楽活動はできる!
そう思った私は、東京にある昭和女子大学に合格。合格後一番最初にそろえたものは、新生活グッズではなく、作曲する機械=シーケンサーでした。それでMIDI打ち込みを始め、デモテープを一本作ってから上京。
1年間の音楽系サークルでの「慣れ期間」を経て、20歳からついに、オリジナル曲によるライブ活動を開始したんです。
当時はとにかく、打ち込みや歌ものの作曲が新鮮で、毎回わくわくしていました。同時にボイトレを始めたり、歌を聴かせるお店で音楽修行を始めたりして、大学を卒業するころにはインディーズでの楽曲提供をするほどになりました。
そんな順調な音楽活動の滑り出しとは対照的に、大学生活はかなり違和感が…。
まず、まわりの生徒と話題がてんで合わない。(話題が合っていた数少ない友だちとも、時がたち、気づけば私だけ離脱していました。)
ケータイ番号を聞かれ、
「ピッチ?ケータイ? 私、遊び人じゃないから持ってないけど・・・」
(キッパリ。当然悪気はない。)
のやりとりで、周りを凍らせたのを皮切りに、受難の時代は始まる。
「服のブランド?なんでそんなの知ってるの?」
と、お茶の時も話が合わない。
一年次は通学圏に実家がある人以外、全員寮生活。
3人部屋でフツーに楽しく暮らしていたはずなのに、ある日、部屋の人たち(先輩含む)にグルリと囲まれて、「堀川ひとみ!あんたのここがいけないのよ!だから言い訳挟まずに聞きなさい」の会を開かれ、いかに迷惑なのかを次々と語られたり。
2〜4年の間にだんだんと友達ともクラスメイトとも溝ができていくのを感じました。